うちには、6年生と3年生の男の子がいますが、冬休みには、いつも「書初め」の宿題がでます。
その「書初め」の宿題に取り組む長男を見ていると、とても潔くて惚れ惚れします。
なぜなら、彼が自分を生きてるな、と感じるからです。
いつも、学校から5~6枚の用紙をもらってきます。
書道を習っていた私にとって、5~6枚は少なすぎるので、練習用にいつでも半紙をたっぷり用意しています。
ところが、長男には練習なんて必要ないのです。
そもそも、文字をきれいに書くことに価値を置いていないので、間違わずに書ければ、それを提出する。
その結果、学校からもらってくる5~6枚の用紙すら使いきることがないわけです。
もちろん、わたしも今までに何度か伝えました。
「何度も練習して、上手に書けるようになったら、清書をするんだよ。」と。
しかし、長男はこういいます。
「そもそも、僕は字をキレイに書きたいなんて思わないから。こんな宿題早く終わらせたいの。」
なるほど。
考えてみると、文字をきれいに書くという文化を押し付けられているにすぎないんですよね。
長男は、間違えずに書くことと、宿題を出すことには、価値を置いているようで、さすがに、間違えたものは、出しません。
そして、どんなに嫌いな宿題でも、必ず完了させて持っていきます。
これが彼の生き方なんだな~といつも清々しい気持ちになります。
「みんながやっているから」とか、「認められるから」という基準で生きていると、それは、他人の人生を生きていることになります。
「自分は何をどのようにやりたいのか?」
やりたいことと、やりたいやり方。
これを大切に生きていたいと、長男の習字の宿題を見ていると、いつも思います。
≪井上きき 役に立つ話 2016年2月1日号≫